leemiyeonのブログ

在日韓国人です。10歳の事故で今は車椅子ですが、楽しく生きたいをモットーに日々奮闘しています。

それでも独りで生きられないことを知る

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30になって、初めて社会人(バイトや家のホステスの手伝い以外は経験ゼロ)となった私に待ち受けていたのは、当然のごとく、こんな仕事もできないのかという嫌味や罵声の連続の日々であった。例の男のことなど考える日などないぐらい、せわしない日々という意味ではありがたい面もあったが、やはり仕事ができない自分を思い知らされるのは辛いことではあった。

 

母がほくそ笑んでいる気がしてならなかった。「ほら見たことか。」と。「弁護士ぐらい名誉・地位のある職につけなければ、在日で障害者のお前は生きていけないんだよ。だから、弁護士が向かないんじゃなくて、向くように勉強しろ!」

母の言う通りにしなかった私がいけなかったのかと、布団に入っては、答えの出ない問いを繰り返しつつ、私自身罰を受けている気がした。

 

勉強だけしてきた私、何も通用しないことはわかった。自己肯定感が低い私は、何においても、自分が仕事ができないことがいけないんだと自責の念に駆られ、毎日家に帰っては、夜中まで、覚えた仕事の復習をし、なおかつ書籍で参考になるものも読み、休み時間やお昼も食べずに(本来してはならないことだが)、人の迷惑にならないよう、自分で物事を解決できるように、仕事に必要なマニュアルや会社のポータルサイトで必要と思われるファルダ内を検索、調べながら、懸命に食らいついた。

 

最初の会社は外資系のIT会社ということもあり、環境としてはよく言えば自由、悪く言えば放置プレイ、聞けば教えてくれる、しかし、しつこいのは嫌われる、専門用語等細部まではわからない私は、毎日必死に勉強していた。大袈裟だとのちに人事に言われたが、薄氷を踏む思いで仕事をしていた。自分を責めるだけ責めて、頑張りすぎたのが祟ったのか、そこで頸椎ヘルニアを患い、治ったのもつかの間、当時無名に近い線維筋痛症という難病にまで侵されてしまった。そうして、見る見るうちに、私の身体は首も動かすことができないほどの激痛が走り、食べるのも寝るのもトイレに行くのもやっとの思いで生活する羽目になった。

某アナウンサーがこの痛みに苦しみ、転落死した事件が話題となり、聞いたことのある病名ではあったが、今ほど認知されておらず、たまたまお世話になっている知人の伝手で行った病院の院長が、精神的ストレスを抱えている貴女のような人はかかりやすいとして、痛点もピタリと当て、抗うつ薬が効くからということで、通院することになった。しかし、いつ治るかわからない難病とされていたため、会社へ迷惑をかけることが申し訳なく、また自分の存在がこの会社の利益につながっていないと勝手に判断した私は、退職した。人事からは、休職もあるのに、どうして自分が悪いと責めるのか?誰も何も言っていなのにどうしてできないと決めつけるのか?と言われたが、自分の不出来が原因で申し訳ないですと言って半年後に辞めた。

 

 

私は、その頃、職業訓練校で知り合った、筋ジストロフィーを患っている今の主人と付き合っていた。彼は、元々はシェフの道を進んでいたが、病気を発症し、いよいよ体が思うように動かなくなり、自分の将来を見据え、やりたくもない事務の仕事を覚えるべく、訓練校に入校していた。私は、彼の哀しげな姿の中にも必死に生きている、高卒だからと人よりも懸命に勉強し、あらゆる資格を取って頑張っている彼を、尊敬の眼差しで見ていた。きっかけは、彼からの告白であったが、私は苦難の中で頑張っている人を見ると、好きにならずにいられないタイプなのかもしれない。交際を始め、二人で協力しながら暮らした方がいいと同棲もしていた。

 

そんな彼から、「半年ぐらいで仕事を辞めて、これからどうするんだよ!」という言葉を聞いた時、全身の痛みで身体の動かない私にこんなひどい言葉を吐くなんてひどいと思いながら、「ああ、私は男性に頼らずにて生きていくつもりでいたが、心のどこかでやはり誰かに頼って生きていきたかった女なんだなあ。よし、絶対に自分に負けるもんか。彼にもとやかく言わせやしない!」そう決めて、痛い体を薬で散らしながら、就職活動をまた始めた。

 

運よく、大手企業にすぐに就職が決まった。身体のことはほぼ治りかけていると言って、ごまかしつつ、入社した。仕事自体は激務ではありながらも、マニュアルが整っている会社であったので、相変わらず嫌味を言われようともついていくことはできた。次第に、身体の方もその激務で痛みを忘れつつあるぐらいまで回復していた。

 

問題は、私の苦手な人間関係だった。年下の子、女性が多い中、特定の女性の頻繁な意地悪に苦労していた。味方になってくれる上司や男性の同僚、別部署で仲良くなった課長がいたことには大変感謝していた。しかし、女性同士が団結する底意地の悪いいじめに、仕事のホウレンソウもうまく立ち行かず、別の部署に配属ということも難しく(私だけ特殊な仕事をしていたので)、ずっと悩みながらも、希望を託して彼女と話し合いを持ったが、結果は何の進展もなし。そのうち、またもや線維筋痛症が再発して、病院に駆け込んだ時には前と同じような症状に戻りかけていた。1年後辞めることを告げ、前職同様、あなたは何も悪いわけではないのだから休職したらどうかと説得されたものの、休職自体が迷惑になると言って退職した。

 

今の主人には、「またか!30半ばになるお前にもう仕事はないと思った方がいい」と言われたが、私はここで諦めてたまるかと通院しながら、必死で仕事を探した。

 

これもまた運よくだが、大手小売業に就職が決まった。身体のことは相変わらずほぼ治ったと申告して...。私自身、たとえまたいじめられても、上司や同僚に怒鳴られても、今度は自分には後がないんだと思って働こうと腹を決めていた。

 

実際は、今までの会社の中で、一番壮絶ないじめ(お局が何人もうつ病で新人を辞めさせていく中、私もそのターゲットになった)にあったが、必死に耐えた。みんながどんどん辞めていく中で、最終的に残った中途採用は私だけだった。

 

その間に、主人と結婚をし、キリスト教の洗礼も受けた。すべてが解決したから、受洗し、結婚をしたわけではない。結婚においては、難病の彼と一生同棲というのは、彼のご両親を不安にさせ、申し訳ないと日頃感じていたこと、ある意味、男がよく言う責任を持たなければならないと思ったからだ。元来、私は自分の両親を見てきたせいか、結婚に全くといっていいほど興味がなかった。しかし、彼は、私が可哀想だからいつでも逃げてほしいという弱音を時に吐く、そんな彼と添い遂げる意志が固いことを証明するためにも結婚に踏み切った。クリスチャンになったことにおいては、未だ自分が救われてもいい人間か、生まれてきてよかったのかはわからない、親に愛された記憶がない私が本当の意味での「愛」を知っているのか、しかも自分が嫌いで仕方がない、にもかかわらず洗礼を受けていいのか最後まで疑問に感じながらも、周りの勧めで、受洗して変わることもあるからと、その言葉にかけてみるつもりで、クリスマスに洗礼を受けた。

 

 

毎日必死に働いた。その間に、主人はどんどん病が進行し、企業に勤められなくなり、先を見て、プログラミングの勉強を始めるべく、専門校に入った。そうなると、私も、彼を支えるべく、簡単には辞められない、何があってもしがみついてやるというなにくそ魂で、いつの間にか10年勤めていた。昇級もし、年齢的に言えば、管理職にならなければならないが、私にはその素質がないのはわかっている、しかし、上からの重圧、下からの突き上げ、心療内科抗うつ薬をもらいながら、自分をごまかし働き続けた。

 

主人の身体が寝たきりに近くなってきたこともあり、バリアフリー対応の家が必要だとの相談を彼から受け、私の貯蓄(私は放っておけばあるだけのお金を使う浪費家となっていたため、結婚後彼が管理をしていた)と彼の分を合わせたら、ローンなしで土地と家を購入できることがわかった。

 

私は、どこか肩の力が抜けてほっとしてしまったのか、またしても線維筋痛症の痛みが発症するようになった。抗うつ薬でも効かなくなっていた。家を建てている最中に辞めるのは、これから先が非常に不安で仕方なかった。そこで、今回は10年勤めていたこともあり、休職を願い出た。

 

1年後、戻るつもりが、人事異動で大幅に人が変わっており、今まで頑張ってくれたのは知っています、でも無理なさらずに、治っていないのなら会社にわざわざ来なくてもいいですよ、ゆっくり休んでください、こちらで退職手続きを処理するとのこと。あっさりとしたものだった。

 

 

その後、自分の天職ともいえる、大手建設会社コールセンター(クレーム対応だが、ネガティブ思考の私でありながら何故か性に合っていた)にスムーズに就職できた。が、上司と同僚の間でいつも伝言ゲーム(両者仲が悪いため)をやらされて都合よく扱われ、逆に、都合が悪くなるとすぐに私の責任にするその上司の姿勢についていけず、やむなく人事に相談するも、結局スルー。上司の言うことに従わない人間と決めつけられ、仲が悪い同僚と結託しているとでもその上司は思っていたのか、日に日にきつい仕事ばかり処理させるやり口のひどさに、根負けした私は、正社員、昇級も用意されていたのに、1年で辞めた。

 

 

そして、直近の小売業の外資系への入社もスムーズに事が運んだ。しかし、コロナ禍も相俟って、会社に出社しないせいか、誰もまとも仕事を教えてくれない、聞いても皆長年の勤続年数ゆえか自分の仕事を囲ってとられたくないとばかりにそっけない返事でいいよやらなくてというばかり。私は、忙しい方が好きな人間だ、このままでは暇な自分がおかしくなると思って、マニュアルを探したが、元々この会社にはマニュアルらしきものは一切ないと言う。仕方がないので、片っ端から、会社のポータルサイトで関係がありそうな資料やフォルダを探して勉強した。ところが、上司(米国公認会計士の資格あり、英語堪能)は私が求めていた人材ではないと入社した後に言うではないか、つまり英語が堪能ではないこと、この会社で使用されているソフトウェアに精通していないことが問題だと。契約更新3か月ごとに厳しくチェックされた。一番良くなかったのは、同じ在日だったため入社当初に仲良くなりすぎたせいか、喧嘩腰の返答が互いに多くなってしまったこと。最終的には、修復不可能なところまで行ってしまった。私は自分から(能力的に彼より劣っていることは明らかであるし、彼はこの会社でも唯一やる気も、能力も人並み以上に優れた人材だ)身を引くことにした。今回も、1年で終わりを迎えた。

 

家は建った。借金はない。しかし、夫婦ともに障害を抱えている。主人は寝たきりに近い状態で、プログラミングをしているが、バイト代程度しかもらえない(業務内容はレベルが高くても)。私は、働くしかない。いや、こういう悲観的な人間だからこそ、外で働いた方がいいのだ、たとえ現実が辛いものであろうとも。

 

主人には、本当に感謝している。上記のきつい言葉は一生忘れ得ないが、彼がいなかったら、私はここまで頑張れなかった。根性なしの人間のままだった。

確かに、精神的にも身体的にもきつくないと言ったら噓になる。

だが、私は独りではない。独りで生きているようで、互いに支え合っているのだ。

 

 

すでに、40半ば。さて、私は...。

 

 

続く