leemiyeonのブログ

在日韓国人です。10歳の事故で今は車椅子ですが、楽しく生きたいをモットーに日々奮闘しています。

それでも独りで生きられないことを知る

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30になって、初めて社会人(バイトや家のホステスの手伝い以外は経験ゼロ)となった私に待ち受けていたのは、当然のごとく、こんな仕事もできないのかという嫌味や罵声の連続の日々であった。例の男のことなど考える日などないぐらい、せわしない日々という意味ではありがたい面もあったが、やはり仕事ができない自分を思い知らされるのは辛いことではあった。

 

母がほくそ笑んでいる気がしてならなかった。「ほら見たことか。」と。「弁護士ぐらい名誉・地位のある職につけなければ、在日で障害者のお前は生きていけないんだよ。だから、弁護士が向かないんじゃなくて、向くように勉強しろ!」

母の言う通りにしなかった私がいけなかったのかと、布団に入っては、答えの出ない問いを繰り返しつつ、私自身罰を受けている気がした。

 

勉強だけしてきた私、何も通用しないことはわかった。自己肯定感が低い私は、何においても、自分が仕事ができないことがいけないんだと自責の念に駆られ、毎日家に帰っては、夜中まで、覚えた仕事の復習をし、なおかつ書籍で参考になるものも読み、休み時間やお昼も食べずに(本来してはならないことだが)、人の迷惑にならないよう、自分で物事を解決できるように、仕事に必要なマニュアルや会社のポータルサイトで必要と思われるファルダ内を検索、調べながら、懸命に食らいついた。

 

最初の会社は外資系のIT会社ということもあり、環境としてはよく言えば自由、悪く言えば放置プレイ、聞けば教えてくれる、しかし、しつこいのは嫌われる、専門用語等細部まではわからない私は、毎日必死に勉強していた。大袈裟だとのちに人事に言われたが、薄氷を踏む思いで仕事をしていた。自分を責めるだけ責めて、頑張りすぎたのが祟ったのか、そこで頸椎ヘルニアを患い、治ったのもつかの間、当時無名に近い線維筋痛症という難病にまで侵されてしまった。そうして、見る見るうちに、私の身体は首も動かすことができないほどの激痛が走り、食べるのも寝るのもトイレに行くのもやっとの思いで生活する羽目になった。

某アナウンサーがこの痛みに苦しみ、転落死した事件が話題となり、聞いたことのある病名ではあったが、今ほど認知されておらず、たまたまお世話になっている知人の伝手で行った病院の院長が、精神的ストレスを抱えている貴女のような人はかかりやすいとして、痛点もピタリと当て、抗うつ薬が効くからということで、通院することになった。しかし、いつ治るかわからない難病とされていたため、会社へ迷惑をかけることが申し訳なく、また自分の存在がこの会社の利益につながっていないと勝手に判断した私は、退職した。人事からは、休職もあるのに、どうして自分が悪いと責めるのか?誰も何も言っていなのにどうしてできないと決めつけるのか?と言われたが、自分の不出来が原因で申し訳ないですと言って半年後に辞めた。

 

 

私は、その頃、職業訓練校で知り合った、筋ジストロフィーを患っている今の主人と付き合っていた。彼は、元々はシェフの道を進んでいたが、病気を発症し、いよいよ体が思うように動かなくなり、自分の将来を見据え、やりたくもない事務の仕事を覚えるべく、訓練校に入校していた。私は、彼の哀しげな姿の中にも必死に生きている、高卒だからと人よりも懸命に勉強し、あらゆる資格を取って頑張っている彼を、尊敬の眼差しで見ていた。きっかけは、彼からの告白であったが、私は苦難の中で頑張っている人を見ると、好きにならずにいられないタイプなのかもしれない。交際を始め、二人で協力しながら暮らした方がいいと同棲もしていた。

 

そんな彼から、「半年ぐらいで仕事を辞めて、これからどうするんだよ!」という言葉を聞いた時、全身の痛みで身体の動かない私にこんなひどい言葉を吐くなんてひどいと思いながら、「ああ、私は男性に頼らずにて生きていくつもりでいたが、心のどこかでやはり誰かに頼って生きていきたかった女なんだなあ。よし、絶対に自分に負けるもんか。彼にもとやかく言わせやしない!」そう決めて、痛い体を薬で散らしながら、就職活動をまた始めた。

 

運よく、大手企業にすぐに就職が決まった。身体のことはほぼ治りかけていると言って、ごまかしつつ、入社した。仕事自体は激務ではありながらも、マニュアルが整っている会社であったので、相変わらず嫌味を言われようともついていくことはできた。次第に、身体の方もその激務で痛みを忘れつつあるぐらいまで回復していた。

 

問題は、私の苦手な人間関係だった。年下の子、女性が多い中、特定の女性の頻繁な意地悪に苦労していた。味方になってくれる上司や男性の同僚、別部署で仲良くなった課長がいたことには大変感謝していた。しかし、女性同士が団結する底意地の悪いいじめに、仕事のホウレンソウもうまく立ち行かず、別の部署に配属ということも難しく(私だけ特殊な仕事をしていたので)、ずっと悩みながらも、希望を託して彼女と話し合いを持ったが、結果は何の進展もなし。そのうち、またもや線維筋痛症が再発して、病院に駆け込んだ時には前と同じような症状に戻りかけていた。1年後辞めることを告げ、前職同様、あなたは何も悪いわけではないのだから休職したらどうかと説得されたものの、休職自体が迷惑になると言って退職した。

 

今の主人には、「またか!30半ばになるお前にもう仕事はないと思った方がいい」と言われたが、私はここで諦めてたまるかと通院しながら、必死で仕事を探した。

 

これもまた運よくだが、大手小売業に就職が決まった。身体のことは相変わらずほぼ治ったと申告して...。私自身、たとえまたいじめられても、上司や同僚に怒鳴られても、今度は自分には後がないんだと思って働こうと腹を決めていた。

 

実際は、今までの会社の中で、一番壮絶ないじめ(お局が何人もうつ病で新人を辞めさせていく中、私もそのターゲットになった)にあったが、必死に耐えた。みんながどんどん辞めていく中で、最終的に残った中途採用は私だけだった。

 

その間に、主人と結婚をし、キリスト教の洗礼も受けた。すべてが解決したから、受洗し、結婚をしたわけではない。結婚においては、難病の彼と一生同棲というのは、彼のご両親を不安にさせ、申し訳ないと日頃感じていたこと、ある意味、男がよく言う責任を持たなければならないと思ったからだ。元来、私は自分の両親を見てきたせいか、結婚に全くといっていいほど興味がなかった。しかし、彼は、私が可哀想だからいつでも逃げてほしいという弱音を時に吐く、そんな彼と添い遂げる意志が固いことを証明するためにも結婚に踏み切った。クリスチャンになったことにおいては、未だ自分が救われてもいい人間か、生まれてきてよかったのかはわからない、親に愛された記憶がない私が本当の意味での「愛」を知っているのか、しかも自分が嫌いで仕方がない、にもかかわらず洗礼を受けていいのか最後まで疑問に感じながらも、周りの勧めで、受洗して変わることもあるからと、その言葉にかけてみるつもりで、クリスマスに洗礼を受けた。

 

 

毎日必死に働いた。その間に、主人はどんどん病が進行し、企業に勤められなくなり、先を見て、プログラミングの勉強を始めるべく、専門校に入った。そうなると、私も、彼を支えるべく、簡単には辞められない、何があってもしがみついてやるというなにくそ魂で、いつの間にか10年勤めていた。昇級もし、年齢的に言えば、管理職にならなければならないが、私にはその素質がないのはわかっている、しかし、上からの重圧、下からの突き上げ、心療内科抗うつ薬をもらいながら、自分をごまかし働き続けた。

 

主人の身体が寝たきりに近くなってきたこともあり、バリアフリー対応の家が必要だとの相談を彼から受け、私の貯蓄(私は放っておけばあるだけのお金を使う浪費家となっていたため、結婚後彼が管理をしていた)と彼の分を合わせたら、ローンなしで土地と家を購入できることがわかった。

 

私は、どこか肩の力が抜けてほっとしてしまったのか、またしても線維筋痛症の痛みが発症するようになった。抗うつ薬でも効かなくなっていた。家を建てている最中に辞めるのは、これから先が非常に不安で仕方なかった。そこで、今回は10年勤めていたこともあり、休職を願い出た。

 

1年後、戻るつもりが、人事異動で大幅に人が変わっており、今まで頑張ってくれたのは知っています、でも無理なさらずに、治っていないのなら会社にわざわざ来なくてもいいですよ、ゆっくり休んでください、こちらで退職手続きを処理するとのこと。あっさりとしたものだった。

 

 

その後、自分の天職ともいえる、大手建設会社コールセンター(クレーム対応だが、ネガティブ思考の私でありながら何故か性に合っていた)にスムーズに就職できた。が、上司と同僚の間でいつも伝言ゲーム(両者仲が悪いため)をやらされて都合よく扱われ、逆に、都合が悪くなるとすぐに私の責任にするその上司の姿勢についていけず、やむなく人事に相談するも、結局スルー。上司の言うことに従わない人間と決めつけられ、仲が悪い同僚と結託しているとでもその上司は思っていたのか、日に日にきつい仕事ばかり処理させるやり口のひどさに、根負けした私は、正社員、昇級も用意されていたのに、1年で辞めた。

 

 

そして、直近の小売業の外資系への入社もスムーズに事が運んだ。しかし、コロナ禍も相俟って、会社に出社しないせいか、誰もまとも仕事を教えてくれない、聞いても皆長年の勤続年数ゆえか自分の仕事を囲ってとられたくないとばかりにそっけない返事でいいよやらなくてというばかり。私は、忙しい方が好きな人間だ、このままでは暇な自分がおかしくなると思って、マニュアルを探したが、元々この会社にはマニュアルらしきものは一切ないと言う。仕方がないので、片っ端から、会社のポータルサイトで関係がありそうな資料やフォルダを探して勉強した。ところが、上司(米国公認会計士の資格あり、英語堪能)は私が求めていた人材ではないと入社した後に言うではないか、つまり英語が堪能ではないこと、この会社で使用されているソフトウェアに精通していないことが問題だと。契約更新3か月ごとに厳しくチェックされた。一番良くなかったのは、同じ在日だったため入社当初に仲良くなりすぎたせいか、喧嘩腰の返答が互いに多くなってしまったこと。最終的には、修復不可能なところまで行ってしまった。私は自分から(能力的に彼より劣っていることは明らかであるし、彼はこの会社でも唯一やる気も、能力も人並み以上に優れた人材だ)身を引くことにした。今回も、1年で終わりを迎えた。

 

家は建った。借金はない。しかし、夫婦ともに障害を抱えている。主人は寝たきりに近い状態で、プログラミングをしているが、バイト代程度しかもらえない(業務内容はレベルが高くても)。私は、働くしかない。いや、こういう悲観的な人間だからこそ、外で働いた方がいいのだ、たとえ現実が辛いものであろうとも。

 

主人には、本当に感謝している。上記のきつい言葉は一生忘れ得ないが、彼がいなかったら、私はここまで頑張れなかった。根性なしの人間のままだった。

確かに、精神的にも身体的にもきつくないと言ったら噓になる。

だが、私は独りではない。独りで生きているようで、互いに支え合っているのだ。

 

 

すでに、40半ば。さて、私は...。

 

 

続く

絶望を知る

        

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母から、この家から、逃げよう...しかし、その当時の私には逃げたくても何をどうしたらよいかわからなかった。

 

小さい頃から、自分の考えを否定され、親の喜ぶ顔が見たい、愛されたい一心の私は、全て母の言われたとおりにしてきた。その結果、もはや自分の意思があるようでない、決断ができない人間になっていた。

 

進路は、私が事故で両足が麻痺してからというもの、一貫して弁護士を目指せとの母の命令(もしそれ以外の職種を選択するなら家から追い出す決まりとなっていた)、司法試験の勉強以外で話があるのなら、すべて母の許可を得なければならない状況にまで自分は縛られていた。

 

家のスナックをホステスとして手伝う自分が、お客さんによく言われていた言葉(私の両足が不自由であり、ママの娘と知っている人々に限る)、「ミエちゃんは足が不自由で在日、可哀そうだけど、社会に出て仕事をするのは、よっぽどのことがない限り難しい、可愛いから今のうちに結婚する人を決めることだね」と。横で聞いている母は、「だから一人でも生きていけるように弁護士になるんです!」、いつも決まって私の代わりに母が答えていた。そうすると、お客さんは、「女は少しぐらいお馬鹿さんの方がいい、ミエちゃんは人の話もよく聞くし、接客がうまい、頭がいいのはわかるけど、一方で天然のところもある、しかも可愛い、今のうちに、若いうちに、結婚させた方がいいよ。弁護士になってどうするの?たくさんいる弁護士の中で成功するとも限らない。しかも、東大や京大出身というわけでもないでしょ。派閥のある法曹界でミエちゃんのような子が生きていくのは大変だよ」と。

中には、私が就職できない、可哀そうな身だと思って、結婚を申し込んでくる人も何人もいた。愛人としてという社長や部長もいた。同伴するためにご飯を一緒に食べるのだが(母はスナックの業績貢献のため、この類の同伴は許していた)、必ずや交際、ないしは愛人契約を申し込んでくる人ばかりに、本能で生きている男という生き物にうんざりしていた。そもそも、恋愛さえもしたことがない(母が決めた人、それは地位・名誉・財産等のある人であればOKを出すとのこと)私には、白馬に乗った王子様がどこかにいるとの思いがあって、スナックで出会って交際、結婚なんて、想像さえできなかった。もちろん、交際を申し込んでくるお客さんの中には、公認会計士建築士等、母が好きそうな名誉・地位を持った人もいたが、下世話な考えしかないのでは?との疑心暗鬼な私としては、真剣になれる人はそうそういなかったし、母はスナックで出会った人に対しては絶対にOKを出さないとしていたので、いいなあと思った人が生涯1人だけいたが、いとも簡単に母に切り裂かれた。

  

私は、社会を知らないゆえ、自分は本当に弁護士になる以外方法がない、でも現状勉強に集中できないほど精神はおかしくなっている、どうしよう、外で働けないとしたら、ここから逃げられない...毎日、悩んでいた。

電話も外出も何もかも監視されている中で、相談する人もなく、気が狂いそうな日々が続いている、相も変わらず我慢してホステスをしていたその時だった。まるで父と瓜二つの人が会社の飲み会で店に来た。父に求めていた愛情に近いものだったと思う、次第に惹かれていった、そして、その年の離れた彼も私を好きだ、一緒に暮らしたいとまで言ってきた。

家を出たい私、弁護士の勉強を続けていいから、俺のそばにいてほしいという彼、意見は一致した。私は、母のいつものように「死ね!産まなきゃよかった!」の言葉が始まるや否や、彼の存在を打ち明けた。烈火のごとく怒り出した母は、私の荷物をゴミ袋に全て入れて、「出て行け!二度とこの家をまたぐな!!戸籍も抜くからな!!」と想像通り、いや想像以上の結果となった。それは、彼があいさつに行っても変わらなかった。

 

 

私は、これで家族のいない人間になった。しかし、母のことで苦しんできた私、家のことで母代わりをしてきた私からようやく解放されるのだ、前向きに考えようとしていた。

 

ところが、1カ月もしないうちに、一緒に暮らし始めた彼が、私の父のように、働かない、言い訳をしては休む、ギャンブル好き、お金がなくなっては自分の親に無心に行く、果ては私が一生懸命に貯めてきた貯金にまで勝手に手を出す人間だということがわかった。子供は、親と似た人を好きになると世間でよく言われるが、皮肉なものだ。

 

最初のうちこそは、彼の言い分を信じていた、情けないと言って涙を流す彼に私も一緒に泣いて同情もした。しかし、1年経ち、2年経ち、状況はまるで変わらない。今度こそ、心を入れ替えて、仕事を新たに探してお前に今までの恩を返す。そして、3年経った。毎日、お金のことしか考えなくなった私は、実家にいた頃とは違った意味で、精神の破綻をきたしていた。密かに近隣の精神科に通ったが、やはり強い薬をくれるばかりで、毎日朦朧とする日々。薬を飲んでも、心が穏やかというよりは、何も考えられないようになってしまっている精神状態になっているだけで、根本的解決には至らなかった。

口にするのもおぞましい。毎日が地獄だった...。

 

私は、20代なりたての頃に、教会に行ったことがあった。文学好きな私、心理学や哲学等も読む私に、キリスト教は学問的興味があると同時に、自分には救われる資格がない(それは母から生まれてこなければよかった存在として烙印を押されていたからだと今になって思う)、神に受け入れられない罪深い人間だからと自己肯定感のまるでない私は勝手に結論付けていたところがあり(もちろん聖書にはそのような人間こそ門をたたくべきと言っているのはわかってはいた)、その疑問を解く糸口になればと何度か通ったのだった。

 

このままでは自分がダメになる、働かなければ...。その前にどこに相談したらいいのか、家族も友人もいない私は、ふと教会のことを思い出した。数年ぶりに訪れた教会、救いが自分にあるか否かはわからない、だが、人と接する機会を与えられただけでも癒しとなり、聖書の勉強会に出る、聖書を読む、自分の中で何かが劇的に変わったわけではないが、今のこの地獄のような生活から脱出しようという力は湧いてきた。

  

私は、ダメもとで、職業訓練校に問合せをし、半年コースなら許可するとのこで、そこでPCや簿記等を学んだ。恥ずかしながら、PCさえいじったことがなかった。クラスで私だけだった。だからこそ、人よりも懸命に学習した。

  

あの男から逃げなければ、自分まで堕ちていく。生きていくだけのお給料をもらえるだけでもありがたい。半年が経とうとするとき、うまい具合に就職先が決まった。

 

最後の最後まで金をむしり取られないよう隠していたお金をもって、私は逃げた。教会の方にも手伝っていただき、安いアパートを借りた。

 

 

すでに30歳になっていた。

 

 

続く

 

 

孤独を知る

        

          

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私は、思春期前後にすでに、自分が孤独であることを悟っていた。しかし、表面上、そんな自分はおくびにも出さず、入院先の友人とワイワイ楽しくやっているふりをしていた。

入院後、日本学校に転校せざる得なくなり、最初こそ、恐怖感(以前に書いた朝鮮学校での教育のせいか日本人にいじめられるのではないかと内心恐れていた)でいっぱいだったが、環境に慣れるにしたがって、日本学校での勉強が楽しく(これも最初はわからないことだらけで、朝鮮学校にはない授業、特に社会や音楽はつらかった)、いつの間にかトップになっていた。その養護学校は、通常の日本学校同様の学業システムのせいか、旺文社等の模擬試験を取り入れたり、内容も高度な方だった。なぜなら、その養護学校でしか勉強したことがない、塾にも行ったことがない私が、模擬試験で常に県内上位の方に位置していたから。

 

私は、転校して、性格的には何ら変わっていない、本当は人の顔色を伺ってばかりで、内心は漠然とした生きることの不安を抱えているのに、そこでは生き生きとしているふりをし続け、自信過剰なぐらいに偉そうにしていた。

容姿、勉強、文章も絵画も、そしてクラブ活動の演劇まで、何をやってもうまく行き、周囲から褒められる自分に自意識過剰だった。

だからこそ余計に、内面を見透かされないように、勝ち気で、横柄にふるまっていたように思う。今、思い出すと、よくもまああんなに偉そうにできたと恥ずかしいことこの上ないのだが、しかし、今の自分には、その半分ぐらいの自信が残っていればとも思う複雑な気持ちだ。今は劣等感の塊なので...。

 

ある日、体育の授業で、1対1でコンビを組んで体操をするとなった時、いつも中心にいた私が1人浮いた。ああ、私は、多くの人に一匹狼でドンのように見られているが、こういう時に独りだと思い知らされるんだと。顔には一切出すまいと強気で押し切りながらも、授業など集中できるわけもなく、空虚な自分がそこにいた。すべては自分で形作った、そして周りが評価した虚像にのっかっていたすぎないのだから。

 

また、こんなこともあった。生徒会委員(小学校で書記、中学校で副会長、生徒会長までは怖くて自信なく)に立候補した時に、当選したものの、反対票の数票の方が気になってしまい、誰に嫌われているんだろうと内心は不安で、毎日犯人捜しをしているかのような気分でびくびくしていた。そんなことは、口が裂けても、言える友人などいなかったが。

 

喧嘩上等、私の歩き方に対して、「変な歩き方、怪物みたい!」と真似してくるやんちゃな男子、「かたわ」という差別用語を平気で言う乱暴な同級生の男子にも、決して涙を見せず、食って掛かった。

 

そう、私は、決して小さい頃から人前で、親の前でさえも涙を見せない、子供だった。負けん気が強かったからだけではない、内面を悟られたくなかったからだ。自分は強い人間だと見せるための芝居。

泣くのは、常に皆のいない場所、トイレや布団に入ってからだった。

 

しかし、高校から(足の状態は良くならなくとも)親元に戻って、親子関係の不全や世間の荒波にも少しずつもまれていく中で、6大学に受かったまでは良かったが、働かない父親ではあれどその父が突然死し、家族関係がさらに悪化、血は繋がっていても、ただそれまでの関係にしか過ぎないほどの関係に陥った時、私の中で何かが終わった。燃え尽くしたわけではない、それほどの努力もしていないから。親に決められた人生といっても、親が喜ぶ顔見たさにある程度頑張ってきた私ではあったが、心がはち切れた。何もする気が起きなくなった。

 

父の死。葬儀での母と父側での親戚の目を覆うほどの大喧嘩。母の好きな人がまるで父かのごとく顔を出す毎日。専門学校卒業したての妹は彼氏宅に外泊し放題、高校中退の弟はピアニストになると言ってはいるもののバイトばかりでろくに練習せず、二人に共通しているのは母親にせびるお金。それを監視する母親の肩を持つ私をいなくなってほしい、一緒に歩くのも恥ずかしい姉(足が不自由な私と歩くと奇異な目で見られるので)としてうざがる妹弟。そのお金について、妹や弟に注意できない母は私を使って監視させ、そんな私自身も母に監視される毎日。私なんぞは家のスナックのホステスをしてちやほやされながら、勉強できずにいる自分をひた隠しにする日々。それでも、お客さんからは、ミエちゃんとママは一心同体(親子と知っている人から常に言われてきた言葉)切り離せないねと言われながら、仕事が終わると始まる母の「死ね、産まなきゃよかった。3人も子供がいて、うちには野球選手の松井や将棋の羽生みたいに偉い、有名になれるやつはいないのか!」と私にだけその言葉を吐き続ける日々に、父が生きている時は母が働かない父で苦しんでいる、私がなんとかしなくては!と思って必死で母親の味方、妹弟には母親代わりをしてきた自分だが、間違っていたことに気づく。私も母も共依存していたのであろう。

 

病院にも内緒で何度か行ったが、神経症とのこと。当時は今よりももっと病名の枠付けが緩かったように思う。強い精神薬(確か、パキシルデパスなど)を渡されるのみで、私のような下半身麻痺を抱えている人間は、フラフラになって日常生活にも支障が出るので、すぐに飲むのをやめた。

 

あの頃のことを振り返ると、どうして死ななかったんだろう、あそこまでされてどうして生きていられたんだろうと、ふと思うときがある。

逃げ出してからも困難の連続だったが、確実にあの時の私は、独りぼっちだった。居場所はなかった。

虚無感、絶望感...心がはち切れたのはそれが原因だった。

死ななかった理由は、ただ一つ。怖かった、自分の存在がこの若さで無に帰してしまうのが。もう少しだけ、もう少しだけ、頑張って生きたら、何かが変わるかもしれない、そう思いながら踏みとどまってきた。

逃げよう。この家との関係が絶たれても(結果的には母から絶縁され、戸籍も抜かれたが)。

 

母の元から逃げ出した20代の頃のことだった。

                                    続く

 

 

韓国テレビドラマの魅力

         

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私は、K-POP同様、韓国ドラマも大好きなのだが、以前、そう数年前までは全く興味がなかった。

ある時、たまたま観た(確かAbemaTVだったか)『美男ですね』を何気に観ていたら、みるみるうちに引き込まれていって、その日徹夜をして一気に観てしまった!翌日、仕事があるにもかかわらずである。そこに出ていたCNBLUEのジョン・ヨンファやFTISLANDのイ・ホンギが各々ロックバンドを率いていると知って、ソテジハアイドゥルから10数年ぶりにK-POPに触れることにもなる。ロック好きな私としては、韓国侮れず!かっこいいし、上手ではないか!!と感心したものだ。

 

美男ですね』以降、配信されている韓ドラは毎日たて続けに観ていった。一日一作品のペース、テレビドラマのみならず、映画もバラエティ番組も面白そうだと思ったものから順に観て行ったら、そのうちほとんど全部制覇して、今や観るものがなくなってしまった。仕事をしているにもかかわらず、まあ不健康な生活を何年もしていたものだと思うが、私は集中すると止まらない、寝られない、結果的に、一年間365作品観ていた、いやそれ以上かもしれない。

今は、観るものがなくなってしまって(日本で配信されているものは)、韓国語の勉強、復習がてら、また母国語である韓国語を忘れないようにするためにもいいと思い、韓ドラやK-POPで気に入ったものを繰り返し、つけっぱなしで寝るという、これまた睡眠に悪いことをここ数年毎日ずっとしている。小さい頃から、元々睡眠が浅く、3-4時間で起きてしまって寝られない体質なのにである。

 

韓国ドラマで一押しといえば、私にとっては、『トッケビ』が一番である。壮大なるファンタジーでありながらも、ラブロマンスの中に、生と死、愛と赦し等、深く考えさせられる要素があり、感動必至である。

次に良い作品を挙げるとしたら?と聞かれても、観すぎてこれ!というのがもう挙げるのが難しい。どれも同列ぐらいのものが多い。

 

韓国ドラマを多く見て言えるのは、日本の昭和の古き良き部分を醸し出すようなドラマが多いせいか(冬ソナもそれにあたるだろう)、懐かしいような、何か忘れていたものを思い出させるような、ノスタルジックな雰囲気に引き込まれて、どんどんハマっていくという作品が多いこと。涙、涙、涙なのである。

 

それでも、最近は、そういった要素も少なくなってきた感はあるが、観る作品、観る作品、感極まって号泣してばかりの私は、やはり韓ドラ沼からはしばらく抜けられそうになさそうだ。

 

トッケビで印象的な言葉は、ウンタクの「死があるからこそ生が輝くのよ」かなあ。

その通り。今日明日いつ死ぬともわからない自分という人間、一日一日を大事に大事に生きなくちゃ...ね。

 

 

こんな世知辛い世の中だからこそ、興味のある方は、是非韓国ドラマを観てみてください。

 

 

決断の時

       

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もうすぐ大学の願書受付が終了してしまう。

 

現状、自分に合った職種(車いすのためマイカー通勤可、駐車場有、自宅から近隣であること)が見つからない。マイカー通勤OKのところを探すだけでも、ほぼない。

私は、今まで上記条件さえ満たせば、とにかく働けるところならとすぐに飛びついてきた。働ける、お金をいただける、生活できる、この不安さえ解消できればと後先考えずに、飛びついてきた。今回は、もういい加減に定年まで長く働きたい。

 

先に大学に入って、半年で心理学一般教養の単位を全部取得し、来年3月には大学院と考えていたが、仕事をせずに、貯金を切り崩して(主人は奨学金に反対)というのは、将来何が起こるかわからないこのご時世、不安で心もとない。

それもこれも、家をローンなしで主人と共同で購入したものの、その後、自分の稼ぎを湯水のごとく使ってきた私が悪いのだ。衝動買い、一種の病気だ、私の場合。

きちんと貯めていれば、大学院に行くぐらいのお金は十分賄うことができたであろうに、買い物依存に逃げていたここ数年。

主人の身体も私の身体も、どんどん年齢とともに、それを別にしても、病気が病気のため、悪くなる一方なのに、今大学→大学院に行っていいものか...決断を迫られている。

 

あと半年待って、4月から大学般教をとるとすると、1年先に大学院の受験となって、それだけ時間が延びる。時間がないというより、私自身がいつ死ぬかわからないという漠然とした不安を抱えているため、焦っているのだが...。

 

 

神さま、優柔不断な私にとって、今何が大事なのか、このコロナ禍で仕事もしていないのに大学から大学院に入ってもいいものか、焦る必要はないのか、自分でどうしたらいいものか迷っています。どの道があなたのみ心にかなった道か分かりません。いまあなたの道を示してください。主よ、助けてください。あなたの道を踏みはずすことなくあなたの道を強く雄々しく歩んでいくことができますように導いてください。

 

 

遅ればせながら東方神起に在籍していたジェジュンファンとなった私

        

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私が小売業の本社に勤めていた時か、東方神起が流行っていた。しかし、その頃の私はK-POPに興味などなく、「李さん、東方神起は知ってる?」「はい、最近よく名前を聞くので知っています」「東方神起は有名だもんね。ところで、今度うちで2PMとの商品コラボの話があるんだけど…」

私は、その後、以前書いたように、2PMにすっかりハマることになるのだが、それは5年ほど経った後のことで、上記会社を退職してからの話。

ところで、先日、ジェジュンドキュメンタリー映画オン・ザ・ロード」ををたまたま観に行った。K-POP好きな私は、東方神起→その後のジェジュン・ユチョン・ジュンスの脱退→JYJの発足→東方神起はユノ・チャンミンでの活動開始、JYJは各個々人の活動に徹している、この一連の流れは知っていたし、分裂をもたらしたのが、ジェジュンの化粧品事業への着手がそもそもの発端であると報道されていることも、自身で調べて知ってはいた。しかし、真相は本人たちにしかわからない、その中で、現状、韓国での活動を制限されているに等しい(大手事務所の圧力ゆえか、もしくはその事務所を敵に回したくないTV制作会社の恐れゆえかはわからない)脱退した3人達、特に日本での活動が目立っているジェジュンがどういう気持ちで過去を振り返り発言するのか、何とはなしに興味を持ったのがきっかけだった。

普段、BTSの活躍を報道で耳にし目にしながら、私としては、ジェジュンを始めとする3人の脱退がなければ、東方神起BTS同様、いやそれに負けなくらい、世界的活躍をしていたのではないかとふと思うことがあった。だからこそ、余計にジェジュンの口から何が語られるのか、知りたかったのかもしれない。

 

映画の内容は、監督のさりげない体でのインタビュー形式のせいか、ジェジュンも気負うことなく、自分をさらけ出しているように見えた。家庭が貧しいがゆえにバイトをしながらの下積み練習生の時代。東方神起としてようやく歌手になる夢をかなえた彼。

人気が出てきた彼に襲う実の親が別にいたことが報道された事実。彼が有名になるや自分が彼の親だと自慢気に話す実母、そして兵役中に会いに来る実父。この実親と養子として大事に育ててくれた両親との中で苦悩する彼。

理由はどうであれ、どんな事柄も責任の一端は自分にもあること(相手があることなので多くは語らないが、東方神起脱退の原因についてであろうことはわかる)から、自分の心に深く刻み込んだ言葉として(彼は忘れないためにタトゥーとしてもその文字を体に刻んでいる)、他人のせいにしない、そして、信念を貫くということを常に肝に銘じていると話していた。東方神起を愛してやまない、JYJも例にもれず 、自分にとって忘れてはならない大事な存在をも彼はあえて上記のようにタトゥーに残している。それは、彼にとっての人生の大事な一部であるから。

 

アンチの中には、彼のせいで、東方神起がバラバラになったと思う方も多いであろう。彼もそれを感じているから、自分は嫌われ者だと言う。言い訳をしない彼、その優しさゆに、かえって彼の心を慮ると胸が締め付けられ、涙が止まらない私であった。

 

それにしても、責任の一端が彼にあるとして、10年以上経っても非難されなけれならないほどの出来事だろうか。彼に理由があったにせよ、なかったにせよ、契約違反は当然の結果としても、世間から未だに批判され続けなければならいほどの大きな出来事だろうか。その頃、ファンでもなかったあなたに、私たちファンの気持ちがわかるのかと言う声もあるだろう。確かに、ファンのその当時の辛さや悲しみはわからない。しかし、アーティストも人間である。ファンの前で欠点一つない聖人君子たるスターが果たしているだろうか。その脱退騒動がなかったら、本当にこのグループは順風満帆にすべてがうまくいったとは言い切れない。たらればでものを言うのが一番危険である。

 

私は、かえって彼のこの映画での言葉一つ一つが人間味があり、彼の人柄に触れた気がして、とても好感を持てた。今までファンではなかった私ではあるが、時に襲う孤独と寂しさの中でも、たった一度の人生だから後で後悔はしたくない、過去には戻れないし、戻りたくないと言って、前を向いて進んでいく彼の姿に魅せられた。キラキラしていてかっこいいだけがアーティストではない、周りからうそつきだのこの映画で同情を買っているだの言いたい放題言われようとも、自分の恥部をさらけ出すというのはとても勇気のいることだ。これぞとばかりに虚勢を張る人間、他人のせいにして責任を押し付ける人間がこの世にいかに多いことか。

と同時に、自分の物差しで、3人の脱退騒動がなかったら、今頃世界的飛躍を...などと勝手気ままなことを言っていた私自身を恥じた。

彼は、今の自分が一番幸せだとして懸命に生きているのだ。

そうだ、一番つらい思いをしたのは、メンバーたちなのだ、私がとやかく言うことではない。

 

 

私がジェジュンに好意を持った点は、他にもある。私も、人と親しくなろうとするがあまり、すべてをさらけ出す人間である。それが、長所でもあり短所。仲良くなれることもあれば、当然傷つき傷つけられ、互いに疎遠になることも多々あるわけだから。

また、孤独と寂しさに押しつぶされ、時に家の中で叫んでしまうことがあるとのこと。これも私と同じである。普段、人の話をよく聞く耳は持って相談に乗る機会は多くても、私自身の心の奥底にある闇や空虚感、孤独感までは極力他人には言わない。一匹狼、強がりのように見えて、実は寂しがり屋。

さらに、最も好きな映画が「ライフ・イズ・ビューティフル」であり、韓国の映画では「私の頭の中の消しゴム」であるとのこと。全く同じである。音楽においても、20代前後で聴いたソテジハアイドゥルに始まり、日本のXJAPANを聴いて感化されたこと、この経緯も同じ(私は基本的に幼少の頃からロックが好きである)で、おこがましいが、親近感を覚えた。

 

私は元来感激家だと思う。映画やドラマ、またはドキュメンタリー、報道記事、小説等、あらゆる媒体で知り得た、頑張っている人の姿を見ては泣き、苦労している人の姿を見ては泣き...感涙にむせぶこと毎度のことである。

 

私は、今回の映画でジェジュンの人となりを知り、アーティストとしてもさることながら、一人の人間としても好きになった。もちろん、今まで応援していた2PM、VIXX、MONSTA X等、嫌いになったわけではないし、今まで通り、応援もしている。ただ、人間として良くも悪くも自分をさらけ出し、困難の中でも信念を貫くと言う彼が、私には尊敬に値する人物として、他のアーティストよりも見習うべき存在であるという、その位置づけの違いだ。

恥ずかしながら、私が信念を貫くほどの努力をしていると言えないから...。

 

 

差別はなくならない

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私は、まだ学生時代の頃まで、差別がなくなる社会はいつかきっとやってくると信じていた。そう、東西ドイツの統一をテレビ画面に張り付いて観ながら、ああ、無理だと思われていたこともやってやれないことはない!希望はある!と信じてやまなかったあの頃。

 

小さい頃から、在日として、障害者として、差別されてきた事件や相手の発言はいくつもあるが、大人になればなるほど、それは少なくなるどころか、ますます増えていっていると感じる。

日本学校でよく言われたことだが、在日を入れるのに反対の声があったとか、たかだか教習所というほんの短い期間学ぶ所でさえ在日には反対の教官がいたとか、また、会社では障害者は馬鹿だからすぐに辞めるとか、障害者は使い物にならない等、まあ挙げたら切りがない。

一番嫌だったのは、母親のスナック経営でホステスとして手伝っていた時、お前の母さん(雇われている女性の告げ口により知ったもの)朝鮮人だろう、朝鮮人はがめついなあとか、朝鮮人日本民族より劣っているのにあのママは偉そうに...とか。身内の悪口を言われるのは我慢ならなかった(たとえ親が私を縛り付けているとはいえ)。面白いことにそういう人間に限って、飲み代を支払わない滞納者ばかりだったが。

最近まで、こまめに続けていたTwitterにおいては、相手の顔が見えないせいだろうか、毎日のように何度も何度も目に入る嫌韓、障害者嫌い(この障害者嫌いを謳っているのは大体が在日だという何の根拠もない決めつけがいやに多かった、結局は嫌いなものは一緒くたにしたいのか)のツイ、ここまで現状はひどいのか、私は愕然とした。

ましてや、好きなアーティストのアンチにおいても、在日で障害者の割には思慮深く見えるなんて、人を馬鹿にしている発言に、呆れてものが言えなかった。

 

以前も書いたことがあるが、この差別たるや、なぜ終わりが見えないのかは、結局、人間は自分と誰かとを比較して優位に立っていることで、安心して生きられる寂しい動物なのだと思う。アメリカや西欧には容姿や文化において劣っていると感じ気後れする、そして、戦争にも負けた。しかし、アジア、殊に、韓国や中国は戦争で日本に負け、南京大虐殺や植民地支配があり、優位に立った、この日本よりは後進国、数十年前の日本を彷彿とさせる見劣りのする敗戦国には勝てる、そう信じて疑わない人々がこぞって日本民族より下劣な民族として見下す。そんな記事への反論やツイは山のように見た。心理的に、人間は、自己肯定感を維持・安定した状態に置くためにも、自分より劣っていると思われる者がどうしても必要になる。その格好な相手が我々在日であり、韓国朝鮮人、中国人等であろう。

 

在日や韓国朝鮮人が反論すれば、日本人はお国柄どうしようもない連中の集まり、未だ植民地だ、従軍慰安婦だ、日韓併合などありもしなかったことをいう馬鹿な連中、あったとしても、日本のおかげでお前らの国が存続できていると強気に出る。最後には、気に入らなければ、国に帰れ!と毒づくお決まりの流れ。

日本人においては、ヘイトスピーチなどと思ってもいないであろう、自分たちが正しいと信じてやまないのだから。在日や韓国朝鮮人からすれば、真摯に歴史的過ちを一度でも謝罪したことがあるのかとなる。

日本も韓国も大統領、首相が変われば、歴史的認識における差異が出て、日本では昔謝罪したと思われることもひっくり返り、韓国では敵を作って他に目を向けさせようと日本を誹謗中傷の的にする。歴史をいいように操作し、自分たちの都合のいいように解釈する政治家。それに動かされる日本や韓国の国民。

人間の本質として、人より優位に立つことで自己肯定感に安定を求める心理があるとしても、国政が上記のようでは、差別などなくなるはずがない。

国政だけでなく、それが、家庭内の教育において、子供たちに伝わればなおのこと、自分で歴史を勉強し、世の中を見極める力を持たない人間たちは、親と同じように、差別発言を屁とも思わないであろう。

 

そこに、私は、望みは薄くても、絶望せずに、ギリギリのところで人間を信じている。

皆が上記に掲げるような人間ばかりではないからだ。

しかし、差別を根本的になくすことは不可能に近いと、人生経験を積めば積むほど、身に沁みて感じる自分が、それだけ血気盛んな若い頃とは違って、酸いも甘いも嚙み分ける年齢になってしまったからだろうか...。