leemiyeonのブログ

在日韓国人です。10歳の事故で今は車椅子ですが、楽しく生きたいをモットーに日々奮闘しています。

孤独を知る

        

          

           f:id:leemiyeon:20210715223246j:plain

 


私は、思春期前後にすでに、自分が孤独であることを悟っていた。しかし、表面上、そんな自分はおくびにも出さず、入院先の友人とワイワイ楽しくやっているふりをしていた。

入院後、日本学校に転校せざる得なくなり、最初こそ、恐怖感(以前に書いた朝鮮学校での教育のせいか日本人にいじめられるのではないかと内心恐れていた)でいっぱいだったが、環境に慣れるにしたがって、日本学校での勉強が楽しく(これも最初はわからないことだらけで、朝鮮学校にはない授業、特に社会や音楽はつらかった)、いつの間にかトップになっていた。その養護学校は、通常の日本学校同様の学業システムのせいか、旺文社等の模擬試験を取り入れたり、内容も高度な方だった。なぜなら、その養護学校でしか勉強したことがない、塾にも行ったことがない私が、模擬試験で常に県内上位の方に位置していたから。

 

私は、転校して、性格的には何ら変わっていない、本当は人の顔色を伺ってばかりで、内心は漠然とした生きることの不安を抱えているのに、そこでは生き生きとしているふりをし続け、自信過剰なぐらいに偉そうにしていた。

容姿、勉強、文章も絵画も、そしてクラブ活動の演劇まで、何をやってもうまく行き、周囲から褒められる自分に自意識過剰だった。

だからこそ余計に、内面を見透かされないように、勝ち気で、横柄にふるまっていたように思う。今、思い出すと、よくもまああんなに偉そうにできたと恥ずかしいことこの上ないのだが、しかし、今の自分には、その半分ぐらいの自信が残っていればとも思う複雑な気持ちだ。今は劣等感の塊なので...。

 

ある日、体育の授業で、1対1でコンビを組んで体操をするとなった時、いつも中心にいた私が1人浮いた。ああ、私は、多くの人に一匹狼でドンのように見られているが、こういう時に独りだと思い知らされるんだと。顔には一切出すまいと強気で押し切りながらも、授業など集中できるわけもなく、空虚な自分がそこにいた。すべては自分で形作った、そして周りが評価した虚像にのっかっていたすぎないのだから。

 

また、こんなこともあった。生徒会委員(小学校で書記、中学校で副会長、生徒会長までは怖くて自信なく)に立候補した時に、当選したものの、反対票の数票の方が気になってしまい、誰に嫌われているんだろうと内心は不安で、毎日犯人捜しをしているかのような気分でびくびくしていた。そんなことは、口が裂けても、言える友人などいなかったが。

 

喧嘩上等、私の歩き方に対して、「変な歩き方、怪物みたい!」と真似してくるやんちゃな男子、「かたわ」という差別用語を平気で言う乱暴な同級生の男子にも、決して涙を見せず、食って掛かった。

 

そう、私は、決して小さい頃から人前で、親の前でさえも涙を見せない、子供だった。負けん気が強かったからだけではない、内面を悟られたくなかったからだ。自分は強い人間だと見せるための芝居。

泣くのは、常に皆のいない場所、トイレや布団に入ってからだった。

 

しかし、高校から(足の状態は良くならなくとも)親元に戻って、親子関係の不全や世間の荒波にも少しずつもまれていく中で、6大学に受かったまでは良かったが、働かない父親ではあれどその父が突然死し、家族関係がさらに悪化、血は繋がっていても、ただそれまでの関係にしか過ぎないほどの関係に陥った時、私の中で何かが終わった。燃え尽くしたわけではない、それほどの努力もしていないから。親に決められた人生といっても、親が喜ぶ顔見たさにある程度頑張ってきた私ではあったが、心がはち切れた。何もする気が起きなくなった。

 

父の死。葬儀での母と父側での親戚の目を覆うほどの大喧嘩。母の好きな人がまるで父かのごとく顔を出す毎日。専門学校卒業したての妹は彼氏宅に外泊し放題、高校中退の弟はピアニストになると言ってはいるもののバイトばかりでろくに練習せず、二人に共通しているのは母親にせびるお金。それを監視する母親の肩を持つ私をいなくなってほしい、一緒に歩くのも恥ずかしい姉(足が不自由な私と歩くと奇異な目で見られるので)としてうざがる妹弟。そのお金について、妹や弟に注意できない母は私を使って監視させ、そんな私自身も母に監視される毎日。私なんぞは家のスナックのホステスをしてちやほやされながら、勉強できずにいる自分をひた隠しにする日々。それでも、お客さんからは、ミエちゃんとママは一心同体(親子と知っている人から常に言われてきた言葉)切り離せないねと言われながら、仕事が終わると始まる母の「死ね、産まなきゃよかった。3人も子供がいて、うちには野球選手の松井や将棋の羽生みたいに偉い、有名になれるやつはいないのか!」と私にだけその言葉を吐き続ける日々に、父が生きている時は母が働かない父で苦しんでいる、私がなんとかしなくては!と思って必死で母親の味方、妹弟には母親代わりをしてきた自分だが、間違っていたことに気づく。私も母も共依存していたのであろう。

 

病院にも内緒で何度か行ったが、神経症とのこと。当時は今よりももっと病名の枠付けが緩かったように思う。強い精神薬(確か、パキシルデパスなど)を渡されるのみで、私のような下半身麻痺を抱えている人間は、フラフラになって日常生活にも支障が出るので、すぐに飲むのをやめた。

 

あの頃のことを振り返ると、どうして死ななかったんだろう、あそこまでされてどうして生きていられたんだろうと、ふと思うときがある。

逃げ出してからも困難の連続だったが、確実にあの時の私は、独りぼっちだった。居場所はなかった。

虚無感、絶望感...心がはち切れたのはそれが原因だった。

死ななかった理由は、ただ一つ。怖かった、自分の存在がこの若さで無に帰してしまうのが。もう少しだけ、もう少しだけ、頑張って生きたら、何かが変わるかもしれない、そう思いながら踏みとどまってきた。

逃げよう。この家との関係が絶たれても(結果的には母から絶縁され、戸籍も抜かれたが)。

 

母の元から逃げ出した20代の頃のことだった。

                                    続く