leemiyeonのブログ

在日韓国人です。10歳の事故で今は車椅子ですが、楽しく生きたいをモットーに日々奮闘しています。

薬物依存症

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題名でいきなりこんなことを書くと、この人は危ない人だと思われそうだが、実際私の症状はかなり危険なものだと医者からお墨付きまで(?)出ている。いや、もはや医者から見放されていると言った方がいい。

 

小学校の事故で入院した10歳の頃からほぼ半年近く、私は、点滴だらけで寝たきりの生活を強いられたため、片頭痛なるものが頻繁に生じるようになり、食べられずに吐いてばかりいた。かといって、頭痛薬もそう飲むものではないということで、治るまでひたすら痛みを我慢しなければならなかった。それでなくとも、両足の下半身麻痺のために、点滴以外にもたくさんの薬を飲んでいたのだから、医者からすればもうこれ以上薬はあげられないということだったのかもしれない。

身体が動かないことの痛み、つらさに加え、点滴を毎日何本もうち、注射も打ち、血液も取られ、頭痛もひどく、食欲もない。3か月で足はやせ細り、体重もかなり減り、歩いていたとは思えない身体になっていた。

 

それは、さておき、この頭痛との付き合いが、入院したころから始まり、小中高校生までは、自身にお金がなく、親に言ったところで買ってももらえないので、急激に襲ってくる痛みと吐き気に耐えながら、何とか学生時代を過ごした。

 

20歳前後、両足が不自由なりにも、大学のお金を工面すべく、バイトをし、その後、家のスナックのホステスの手伝いをする中で、どんどんストレスが溜まっていったせいだろうか、頭痛の頻度が月1-2度だったものが、週2-3へと増え、バイト代でバファリンを親に内緒で買うようになった。

それから、20年、もはや、このバファリンを手放せなくなってしまった。

週2-3は今から思えばまだかわいいものだ、今は毎日、ワンシート、すなわち2錠を計5回は最低でも飲むようになってしまったのだ。

 

それには、親と断絶してから、勉強ばかりしてきた私がいきなり遅まきながら社会人になり、罵詈雑言の中でも必死に会社に喰らいついてきて、当然のことながらストレスもあり、それを解消できない、不器用な私の身体に痛み(頭痛)となって現れる、そこで、予兆を感じれば、すぐにでも飲んでしまう(飲む際の回数や時間を置くことなどお構いなく)傾向にあったため、どんどんエスカレートしてしまったわけである。

働いている間に、筋線維筋痛症なる難病(全身にリュウマチのような激痛が走る病気だが、原因不明の難病とされている)の発症もあってか、病院からもらう薬だけでは決して簡単には治る病ではないことから、所かまわず、バファリンを常用していたことも良くなかったのはわかっている。

 

その後、折をみては、病院の頭痛外来や内科、心療内科等受診したものの、こんなに大量にバファリンを飲む人を見たことがない、全国でもあなたぐらいではないか、あなたの場合、事故による原因不明の下半身麻痺や繊維筋痛症で安定剤等を飲んでいることもあるし、手の施しようがない、もはや薬物中毒であって、専門の自立機関に行くしかないのでは?と匙を投げられるばかりで、結果、どの病院に通院しても効果はなかった。

時すでに遅しらしい。「薬物乱用頭痛」であることは、自身でも勉強して、わかっているのだが、20年続けてきたために、止めようとすると、頭痛発生の際、嘔吐やめまい等でおかしくなり、必ず救急車に運ばれる。よって、もはや治らないものとしてあきらめている。

 

心療内科のかかりつけ医に言われたことは、苦笑いしながら、「早死にすることは間違いない、体にいいわけがないのだから、だが、心筋梗塞にはならないだろうな、これだけ飲んでいれば」と。もちろん、その病院でも、漢方薬や代替薬で色々試したのだが、結果は効果なしだったのだ。結局は、強い意志をもって、やめるように持っていくべきなのだろうが、20年の過剰な摂取から若干減らしたと思っても、仕事によるストレス、嫌な出来事があると緊張して薬に手が出てしまう。そうしないと、また救急車送りになってしまうということで、悪のスパイラルから抜け出せない。

 

あと、何年生きられるかわからない。たくさんの病気を抱えているから、覚悟はしている。しかし、ここまで生きてこられたことは、感謝でしかない。10歳で死ぬはずだった私が数十年生かされたのだから。

だからこそ、最後は、恩返しのつもりで、世の中の弱者に少しでも寄り添いたいのだ。

 

神さま、もう数年生かさせてくださいと願うばかりである。

 

 

太宰治

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私が、芥川龍之介の次に魅せられた作家が、太宰治だった。

中学生の頃、演劇部に所属していた時、「走れメロス」のメロスを演じたことがあったが、左記の力強い作品よりは、「人間失格」のような己の弱さをとことんさらけ出す作品の方が好きだった。どんなきれいごとを言ってもはじまらない、人間なんて皆醜くて弱い生き物だと語り掛けてくるようで、中学に入って間もない私ではあったが、なぜかこの主人公に親しみを感じていた。

 

話の展開からして、私自身を投影して読んでいたように思う。

 

 

「恥の多い生涯を送ってきました。」

主人公葉蔵は、幼少のころから、孤独の中で、人間の営みがわからない、人間が理解できない、他者と自分が違う感覚を持つことを自覚しながらも、どうすることもできず、発狂しそうになる。繊細で臆病な彼が、常に不安と恐怖を感じながらも生きるために選択した方法は、人間に愛されるためにわざと「道化」を演じるというものであった。そのため、彼は、周りから、優等生でありながら、愛嬌のある、ユーモアのある子として人気者になる。

 

中学生になって、同学年の「竹一」に自分の道化を見破られそうになり、葉蔵はひどく焦り、不安と恐怖におののく。その子を友人にすることによって、自分の知られたくない秘密を公にされることなく無事学生生活を終えていく。

 

高校に入り、悪友「堀木」に誘われるがままに、酒、たばこ、女、左翼思想へと、どっぷり浸るようになる。生活は見る見るうちに破綻していき、果ては、人妻との心中未遂事件まで起こすが、自分一人生き残る。

しかし、彼の退廃的な生活は変わらない。シングルマザーの女性やバーのマダム等、破壊的な女性関係へはまりこみ、絶望の淵へと立たされている中、純粋無垢な「ヨシ子」に出会う。葉蔵はこの子となら人間らしく生きられるかもしれないと、彼女と結婚し、一時の幸福を得る。

だが、彼女は出入りの商人に犯されてしまう。人を疑わない純粋さゆえに、他の男に犯されてしまう。

葉蔵はもはやこの世で生きる一切の希望を失った。アルコール、麻薬へとおぼれ、再び自殺未遂を起こす。やがて、彼は脳病院へと入院させられるはめになる。「狂人」としてのレッテルを貼られた彼は、自らを「人間、失格」と確信する。

 

はしがき、あとがきは第三者の視点で語られている。葉蔵を知るバーのマダムが、「神さまみたいないい子でした」と語り、小説は終わる。

 

 

私も恥の多い人生を送ってきた、そして、いい子ちゃんを演じる道化へと徹していた、また、人間が不可解、人間が怖い、生きる不安と恐怖ゆえに、現実逃避する生き方を選んだ時期もあった。退廃的な生活と言える時期もあった。

太宰の作品は暗いイメージに続き、彼自身の生涯とも合わせて、苦手な人も多いかと思われるが、私は、人間の弱さ、恥部、醜さを余すところなくさらけ出す彼の文章が、初めて彼の著書を手にした小・中学生時代から、共感できる部分が多く、好きだ。人間なんて皆似たり寄ったり、そして、葉蔵はまさしく自分でもあると確信している。

彼の弱さは優しさの裏返しであり、裕福とは言えども父親の教育ゆえか人間が理解できない、人の機嫌を損なうことなく道化を演じて孤独な自分をひた隠しにしながら生きる、しかし、生きることへの不安と恐怖は最後まで消えることはない。

「ただ、いっさいは過ぎていきます。」

 

人間的な魅力にあふれている太宰がなぜか自分に近しい者に感じ、愛読したものだった。

 

 

 

 

メイク、そしてコスメ・美容

私は、10歳で事故のため入院したわけだが、顔色が青白く、単なる色付きリップを塗っても、学校の先生から「李、メイクしてるだろ?おしろい塗ってるだろ?」等々、年中言われたものだった。

この頃になると、誰でも、思春期にさしかかることもあり、リップやネイルぐらいは、親のものを借りたり、ワンコインで買えるしろものは持っていたものだが、何もしなくてもメイクをしているとよく注意されたのを憶えている。

 

確かに、小学校高学年ぐらいになってきたら、メイクへの興味は増してきた。しかし、なにぶん、お金がない。そこで、リップがせいぜいだった私だが、病棟の図書室に置かれていたメイク方法が載っている雑誌も、他の読書同様に、興味深くよく見ていた。

 

20歳になる前に、足が不自由ながらも、バイトをし、稼いだお金で安いコスメを買って、メイクをするようになり、その楽しさを知った。しかも、自分のメイクが、ホステスの手伝いをさせられるときに、女性人のみならず男性客にも好評であり、親にまで伝授するほど、また、当時は化粧水の手作りまでする勢いで、コストは安くてもこんなにかわいく、きれいにメイクできるんだということを、人にも実践することで、周りに相当の評価を得ていた。

この点において、私はセンスがあったと自分でも思う。何も高いものを使う必要はない、その後家を出て働くようになって高いものから安いものまでほぼ全部のコスメを制覇したと言っていいが、結局はその人の腕次第で、かわいくも、きれいにも、いかようにも変化できるのだと自分自身の経験で悟った。

 

しかし、残念なことに、私の場合、超敏感肌が年々ひどくなり、あらゆる化粧品を試したものの、ほとんどゴミ箱行き(今でこそ使いかけでもメルカリ等で売れるが)という始末。これは、本当試してみなければわからないので、お金の無駄遣いと言われても仕方がない。さらに、私は、顔だけでなく、全身の肌(頭皮からつま先まで)が弱いため、どれだけのお金を費やしたことだろう。今は、完璧とは言えないが、半ば良しとして、若干高めではあるが、国産のオーガニックコスメをラインで使用し、メイクもオーガニックのミネラルファンデーション等にほぼ統一している。外資系のものは、特に赤味やかぶれが出やすいので、今はもはや使用していない。

シャンプーもボディーソープも無添加にしている。それでも、完全にかゆみ等がとれるわけではないのだが。

 

そう考えると、メイクが好きなのは、人を外見的にきれいにすることで、自身をもたせること(中学高校の頃の私は、顔のどこどこが嫌いということで、顔を隠しながら人と話す癖があった時期があったほど)に一役買うこと、そして、人にメイクをしてあげることで上手!と喜ばれることもさらなる自分への自信につながること、そのうえで、外見だけでなく、内面も備わってなければいけないという自己啓発にもつながる、私は、どんなに年をとっても、メイクをするであろうし、コスメ・美容が好きだ。自分の肌が弱いだけに、知識にも詳しくなったこともあるが、本当なら、メイクで人を幸せにできたらなあと、車いすでも許されるなら、メイクアップアーティストになりたかったなあという思いもある。

 

みんな、内面も外見も美しくあれ!!年齢は、関係ない♡

 

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癒されるもの

各人が自分にとって癒されるものを持っているかと思う。

私で言えば、音楽であり、読書であり、そう観葉植物を育てることも入るかな、コスメ・美容大好きなところを活かして、自分や誰かに化粧をしたときに上手と言われるとうれしいかな、それとブログで自分の人生の記録を取っているのも最近では癒しの一つになっているかもしれない。

 

今日は、観葉植物を紹介してみたい。

実は、頑張って働いて主人のためにも家を建てた私は(彼の金銭管理のおかげ)、働きづめの毎日で、熱中できる趣味というものがないことに気づいた。広く浅くがこの私だ。

そこで、子供がいない(正確に言えば、子供を作らない選択肢を選んだ)我が家に何か愛でるものが欲しいと思ったときに、動物はともに障害を持っている夫婦において、世話が中途半端になりかねい状況下でかわいそうだからやめようということになり、私が考えたのは観葉植物だった。

 

最初は、失敗ばかりだった。勉強したものの、心配になって必要以上に水やりをし、1つの鉢を腐らせてしまった。あと、日が当たるところに置いておいたところ、その日の異常気象が影響したのか、根から葉まで一気に変色してきてダメにしたことが多々あった。やはり家を不在にしているとむずかしいのか、寝たきりに近い主人には任せられないので、その日当たりのせいで枯らした、腐らせた経験が最初の1、2年は多かった。

家を建てて4年目だが、さすがにもう手慣れてきて、植物も天井に届きそうな勢いで成長している。嬉しい限りだ。

 

その中で、最も育てやすかったのが、ガジュマル、サンセベリア、ポトス、モンステラだろうか。今のところ、長いものは3年以上すくすくと?育っている。

何故か、パキラだけは育てやすいと言われているのに、どうしても根から腐ってきてしまう。ウンベラータやシェフレラもどうしてもうまくいかない。植物がかわいそうなので、何度も購入するのはやめているが...原因が知りたいものだ。

 

私は生まれ変われるとしたら、植物や花になりたい。その命ははかないけど、一生懸命生きていて美しい。

 

ガジュマル

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サンセベリア

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新生活が捗る逸品~私の場合

#新生活が捗る逸品

 

ある意味、新生活というべきか、コロナ禍で、夫婦ともに、互いに家にいざるを得ない状況下である在宅ワークを通して、ストレスや鬱屈した気分を解消するのにここ最近購入したもので役立ったものが、「ホットプレート」だった。

 仕事から帰ってくると、主人が夕飯を用意してくれているこの我が家の日常。お恥ずかしい話、私は料理が下手で、主人は元シェフをやっていたこともあって、彼は率先して自分が私に代わって料理をしたいと言ってくれてから、早10年。最初の3年間、我慢して私のご飯を食べていた彼が、障害がどんどん重くなってきて、在宅勤務になってから、自分が料理するから全部任せてほしいと言ってきたのだった。

確かに、毎日言葉を失うほどおいしいご飯(夕飯)で、感謝してもしきれない。

ただ、私の仕事が、不規則で、夕方6時半に帰ってこられることもあれば、残業で夜中のこともある(ちなみに、現在は離職中)。そうなると、一緒に食べる時間というのがほとんどない。それが、至極残念でもあった、仕方ないことかもしれないが。

 

コロナ禍で在宅ワークに切り替わってから、一緒に食べられるかと思いきや、それも仕事が忙しくて叶わない日が多かった。主人もせっかく温かいうちに食べてほしいのに、急遽残業等で一緒に食べられないとなると、残念というよりは、シェフをしていたからであろうか、その場ですぐに食べてもらえないことが嫌なようだった。

彼は、食べる時間には結構口うるさい(笑)。

そこで、ホットプレートのお出ましだ!

手軽に、さっと、そして一緒に楽しく食べられるであろう、ましてや、レパートリーも結構ある、とのことで、早速購入。

食べる際の何気ない会話もたくさん増えた。また、いつもなら外で食べていた、もんじゃ焼きやたこ焼きが家で食べられ、焼き肉やパンケーキ等もフライパンで作るより、ずっと美味しいではないか。これで、外食しなくては食べられないと思っていたものまで、食べられる!少なくとも、我が家では、作れないものがなくなった、彼がすべてわけなくこのホットプレートで作ってしまうのだから。

気のせいか、二人で一緒に食べる夕飯の時間が、より楽しく、会話も弾み、笑いも以前にも増して絶えなくなったように思う。

 

 家族団欒にもってこいのホットプレート、我が家では遅ればせながらではあるが、素敵な楽しい時間を作ることのできる品物であることを知った最近である。

 

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頑張る人々

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私は、どんな目標でもいい、頑張っている人が好きだ。いや、目標がなくても、日々生きていることに頑張っているなあと感じる人を見ると、応援したくなる。

何かに向けて頑張っている姿というのは、輝いていて、美しい。

結果ありきではない、その過程で努力しているだけで、後押ししたくなる、声援を送りたくなるのだ。

それは、自分がただ漫然と日を暮らしてきたからかもしれない。

 

例えば、詳しくはないが、高校野球甲子園もまさにそのがむしゃらな姿は結果がどうであれ涙が出てくるし、自分の好きなK-POPでいえば、現在放送中のMnetサバイバル番組「KINGDOM」を毎回観ているが、出演アーティストが1位の座を獲得するために、たゆまぬ努力を積み重ねてきた結果、繰り広げる生パフォーマンスは、どのアーティストも迫力があってかっこよく、全員応援したくなるほどだ。

また、別件にはなるが、自分が障害者であることを受け入れ、在日であることを誇りに生きてきたものの、いつも受け身で生きて、目立たないようにしてきた感のある私が、最近ある記事に意見したところ、ちょっとした騒動に巻き込まれ、揶揄されたり、批判されたりしたことで、障害問題に前面から取り組んでいる人々を知って、その姿に、勇気と活力をもらいつつ、自分としても何かできることはないかとこの年になって初めて真剣に考えた。私は恩恵にあずかる側だけで、闘う先人のことを特に気にしたこともなかった。その時、その時の与えられた状況で必死に生きるしかない、声をあげるということなど想像したこともなかった。しかし、自ら行動することの大切さ、黙って甘んじるだけでは何も変わらないのだなということを痛感した。

 

今後、就職と並行して心理カウンセラーの資格を取るべく勉強をしていくつもりだが、何か私にもできることはないか、今回この事件をきっかけに知り合った人を通して自分でも再考しつつ、微力ながらも悩んでいる人(それは障害者だけでなく、性別、宗教、国籍等諸々ある)の手助けをしたいと心の底から思う次第である。

 

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表現の自由

憲法第21条第1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 

自身が専攻していた法学の話になるが、日本国憲法第21条で上記「表現の自由」が保障されている。

 

IT技術にて情報通信手段が極めて発達してきた現代においては、SNSTwitterを通じて、顔が見えない相手にいくらでも不適切な、侮蔑的な、猥褻的な表現行為をすることができるようになった。昔は、直接相手に向かって発言する、ないしは文章(手紙や新聞等)、電話しか手段がなかったのだから。

 

私が憲法21条を勉強した時、この表現の自由は絶対無制限に保障したものではなく、「公共の福祉のため必要かつ合理的な制限を是認するものである」との最高裁判例が出ていることからも、どのような表現行為も全てが許されるものではないと学んだ。

 

ヘイトスピーチが話題になって久しいが、このヘイトスピーチも表現行為だということで、「大阪市ヘイトスピーチへの対処に関する条例」が表現の自由を保障する憲法第21条第1項に違反するかどうか等が争われた(大阪地方裁判所・令和2年1月17日判決)。

この条例は、大阪市区域内で行われたヘイトスピーチについて、市長が拡散防止措置を講ずることやヘイトスピーチを行った者の氏名等の公表をすることなどを定めていたもの。裁判では、そもそもこれらが表現の自由の制限に当たるかも争点となったが、大阪地方裁判所は、これらの条例の諸規定が表現の自由を制限するものであると認定した上で、その制限は、「公共の福祉による合理的で必要やむを得ない限度の制限であり,容認されるものである」と判断した。大阪地方裁判所は、その理由として、①条例の目的が、名誉の保護や特定の民族等に対する偏見や差別意識等が助長されることなどの抑止等にあり、「合理的で正当なもの」であって、条例の定める拡散防止措置等によりヘイトスピーチを防止する必要性が高いこと、②拡散防止措置等は、表現活動が行われた後になされるものであり、制裁を伴うものでもなく、プロバイダ等に対してヘイトスピーチを行った者の氏名の開示を義務付ける規定もない上、市長が拡散防止措置等を講ずるに先立って学識経験者等により構成される附属機関に対して当該措置等を講ずることの合理性について諮問されることが予定されていること等を挙げている。

上記の判決からすると、表現の自由が保障されている=ヘイトスピーチが許されるとか、制限を受けない、ということにはならない。表現の自由を保障している憲法は、第13条前段で「すべて国民は、個人として尊重される。」とも定めている(いわゆる個人の尊厳)。自分と異なる属性を有する者を排斥するような言動は、個々人が尊重される社会にはふさわしくはないのであって、ヘイトスピーチはあってはならないということになるが、現状、自身が経験する毎日の出来事に、朝鮮韓国人ないしは障害者を差別する言葉や表現を目にしない日はないに等しい。

 

どうしてそんなに目の敵にしたがるのだろう。やはり以前私がブログにも書いた、人間は他者と比較して自分が優位に立っているということを肌で感じながら、安堵や優越感に浸りたい生き物なのだろうか。私は、小さい頃から差別にあっていることで、ただただ純粋な気持ちで、仲良くなれないものなのだろうか、仲良くなりたいのに...とも書いたが、人間の本質は、現在も地球上のどこかの国で必ずと言っていいほど起きている戦争がとどまることを知らないように、醜くも、争うのが好きな動物に見える。

 

私は、それでもこの国に(もちろん韓国にも)、そして人間に絶望したくない。